- Mon, 1 Jan 2024 -
1 豪華絢爛 カイディン帝廟
2 心休まる離宮 トゥドゥック帝廟
2.1 伝統工芸のお線香作り
3 繁栄の残り香 フエ王宮
4 口福なフエ宮廷料理
5 ドラゴンボートで天母寺へ
6 離宮のようなAncient Hue
6.1 Specialな王族体験
NEW YEAR in Vietnam!! ブンボー・フエで始まる新たな年。
今年もどうぞよろしくね✨
朝は真っ白だった街の霧も晴れ、元旦の朝早くから迎えに来てくれた現地ガイドさんとドライバーさん。ちょっとクセはあるけれど、ガイドさんの日本語はかなり聴き取りやすい! 助手席から後ろに顔を出し、おやじギャグ的なジョークも話の節々で炸裂。
でもうっかり名前を聴き取り損ねて、日本にもいそうな風貌の彼を、親しみを込めてコッソリふみひろと呼ぶことにした😊
豪華絢爛 カイディン帝廟
ここフエに都を制定した、ベトナム最後の王朝・グエン朝。このカイディン帝廟 Lang Khai Din に眠る12代皇帝カイディンが即位する1916年には、王朝はすでに宗主国フランスの保護下にあった。
フランスはカイディン帝を擁立するほか、漢文からアルファベットのクオック・グー(現在のベトナム語の前身)へと改定を進めさせたり、官僚の登用制度を中止するなど、反仏勢力が台頭しないよう抑え込んでいたそうだ。
はじめこそグエン朝らしさが失われていることに葛藤し、フランスの顔色を伺いながら治政を行ったカイディン帝だが、1922年マルセイユ博覧会への出席を機に仏文化に感銘を受けると、贅を尽くしたフランス風帝廟建設のために税率を30%まで引き上げるなど、人民から ”最も嫌われた皇帝” として有名だ。
神の使いとされている龍は、ベトナムでは皇帝の象徴でもある。装飾の多くは龍をモチーフにしていて、どこを眺めても龍・龍・龍のオンパレード!!
広い拝庭には、中国風の人物像が両脇に並び、中央の一段上には全体に龍の装飾が施された建物が。無宗教な皇帝で、仏教・キリスト教・ヒンドゥー教などが入り混じった空間が出来上がっているのだそうだ。
フランスから輸入した鉄筋コンクリートのバロック様式を中心に、中国様式も取り入れた帝廟は、1920年から皇帝の死後まで11年かけて建立された。
入口から数えて120段。
いよいよアジア各地から集められた瓶や陶器で飾られた、目も絢な啓成殿へ。
皇帝が安置されている帝廟内部には、等身大の金箔を施された青銅の皇帝像が鎮座する。後ろは太陽のシンボル? 龍の天井画は仏教では教えを守るものとして描かれていて、日本のお寺でもよく見るよね。
見どころはなんといっても、絢爛豪華なモザイク!
天井と壁面いっぱい手を抜くことなく、中国や日本の磁器、ガラスの破片などをはめこんだ四季にちなんだ装飾が、ステンドガラスのように美しくそびえ、細部にまで独創的な美意識と拘りが詰め込まれている。
カイディン帝は賭博や化粧・女装に夢中で(だからこそ贅沢な装飾には感性が豊かだったのか?)、政(まつりごと)はおざなりだったよう。”最も嫌われた皇帝” という不名誉な称号を冠しているのに、現代ではこの帝廟が一番人気が高いんだそう。
不思議なものだね・・・。
心休まる離宮 トゥドゥック帝廟
続いて訪れたのは、在位期間36年(1847-1883)とグエン王朝の中で最長だった、第4代トゥドゥック帝(嗣徳帝) Tự Ðức の帝廟。
カイディン帝とは真逆で、仏文化やキリスト教を弾圧した皇帝として有名。彼の政策に猛反対したフランスがベトナムを攻撃したことが、フランス植民地化の始まりになったとも言われている。
そんな皇帝の意向を反映し1864年から3年かけて建てられたこのトゥドゥック帝廟も、ベトナム風・中華風の落ち着いた雰囲気で統一されている。
ベトナム戦争で激戦区となったフエでは、多くの歴史的建造物が破壊されてしまったが、現在あちこちで復旧に向けて調査が進められているんだそう。こうしてベトナムを周っていると、なんだか戦後の日本の姿が重なってくる。
でも時の皇帝の性格や好みによって、代が変われば方向性もがらりと変わり、そのたびに民衆の生活はずいぶんと振り回されたんだろうな・・・。
あっ、ベトナムに限らずそれはどこの国でも同じか💦
トゥドゥック帝は、広南阮氏の正史を編纂させたり、現存するフエ王宮や郊外の帝陵(初代ザーロン帝廟や第2代ミンマン帝廟)の整備など、建築事業も大々的に行った。
まめで律儀で堅実な皇帝の人となりが、この帝廟の雰囲気にもよく現れている。
持病があり体も弱く消極的の性格な皇帝で、儒教を好んだ。帝廟のあちこちに「謙」の文字がみられる。
映画「インドシナ」のロケが行われた愈謙榭。
自然の穏やかな美しさを愛でるかのようなつくりは、詩歌を好んだ皇帝らしく、また他の帝廟と違い生前から離宮として滞在していたからかもしれないね。
☑2人の皇帝のホロスコープ
今回観た、あまりに個性の差がよく現れている2つの帝廟。思わずそれぞれの皇帝のホロスコープ(出生時間は不明)を確認してしまった・・・その違いがよく読み取れて面白かったので、後日占星術記事でUPします!
伝統工芸のお線香作り
2つの帝廟を周ったあとは、トゥドゥック帝廟の近くにある トゥイスアン線香村 Thuỷ Xuân Incense Village でちょっとひと休み。
お花畑みたいなカラフルなお線香! ノンラー、かぶってみたかったんだけどいい!?って聞いたらどうぞどうぞって♥
お線香、なんやかやでシナモンとジャスミンを買いました。も~~商売上手(笑)
繁栄の残り香 フエ王宮
ベトナムには世界遺産が8つ、この旅で訪れるのはうち4つ。2日目に訪れたミーソン聖域と古都ホイアン、そしてここにあるフエの建造物群が3つ目になる。
1993年にベトナム初の世界遺産として登録された、北京の紫禁城を手本として造られたフエ王宮 Kinh thành Huế。フランスの支配下であった時代を含めて1802年から1945年までの143年間、グエン朝の王宮として使われていた場所だ。
まずは南の午門から。5つの入口があり、中央は皇帝と各国大使、右が文官、左が武官の使用するもの、さらに両端は兵士や馬・象が使用したもの。日本から天皇ご夫妻が訪問した際も、中央の入口から入られたそう。
4つの川が自然の堀として機能しており、さらに内側に四角い人工の堀がめぐらされて王都を護っている。
午門は初代ザーロン帝時代に建てられた見張り台が土台となり、第2代ミンマン帝が改修したもの。
中国・紫禁城にある午門の縮小版と言われているそうだけど、華やかな屋根の装飾や熱い国特有の吹き抜けに、土地柄が現れているね。テラスの部分では、科挙の合格発表や皇帝の観閲式が行われていたんだって。
午門からは、王宮都市(お堀に囲まれた部分)の外にあるフラッグ・タワーもよく見える。こちらも初代ザーロン帝時代に建てられた見張り台で、第12代カイディン帝の時にコンクリート製のものに再建された。3段なのは「天・地・人」を表しているのだとか。
👨「フエは王宮に美人が集められてたから、今も美人が多いね。宮廷で働いていたから、料理も上手!」
説明が長く続き、なかなか午門から動かないふみひろ・・・。と思ったら、ここで衝撃の一言が!
👨「王宮は今改修中で、見られるところが限られてるね…」
えっ、改修中!?
王宮見学、楽しみにしてたのに! 知らなかったよ~💦
・・・ということで、目玉の太和殿 Thái Hoà Điện(当時は女人禁制)は見られなかったものの、最後にいくつかの主要建造物を繋ぐ回廊を中心に、自由散策✨
内側の広場?では、伝統衣装を身に着けた観光客ばかり! 人気のアトラクションらしい。
辛うじて残るといった体の、黒い変色に蝕まれた古き王都の壁。残る色彩の鮮やかさが、艶やかだったろう在りし日の姿を想像させる。
太和殿の後ろ、紫禁城エリアは周囲が3mの壁で囲まれており、太和殿の後方には皇帝が執務を行った勤政殿、皇帝の寝所である乾成殿、後宮の中心部坤泰宮といった重要な建造物が、南北方向に一列に並んでいたそうだ。
グエン王朝が幕を閉じ新たに建てられたベトナム民主共和国が、フランスからの完全独立をかけ戦った第一次インドシナ戦争でこれらの建物は破壊され、建物同士を繋いでいた回廊のみが現在は残されてる。
その後、アメリカの侵攻を背景に起きたベトナム戦争中、テト攻勢で南北ベトナムの交戦地になったフエでは、知識人や指導者、教育者や聖職者を含め、人口の数%に当たる3000~6000人もの人々が虐殺された(フエ虐殺)。フエを包囲していた解放戦線(ベトコン)によるとも、それを駆逐するためアメリカが行った空爆による死者が混じっているとも言われている。
紅く塗られた規律正しい扉が並ぶ回廊は美しく。そこに民族衣装で立つ観光客が、まるでその時代の王宮の人々のようで。
開け放たれた鮮やかな扉から覗く、塀や緑。そよ風が体を撫でてゆく。
この王宮が繁栄していた古き時代から、途方もない犠牲を払いながら数多の過酷な戦争を乗り越え、ここまでの平和をこの地にようやく取り戻したベトナムの人々に、心からの敬意を表したい。
出口は顕仁門。びっしりと埋め尽くされたカラフルなモザイクで龍や花鳥風月が、小さな門だからこそ余計、その贅沢さが見事に映える。カイディン帝廟で見たのと似ているけれど、その時期に造られたものなのかな。
☑インドシナ戦争と植民地からの完全独立
グエン王朝を支配し植民地・仏領インドシナを形成したフランスも、第二次世界大戦でドイツに占領されると植民地への支配力が弱まり、ベトナムの共同統治を始めた大日本帝国も敗戦国となった。統一戦線ベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織していたホー・チ・ミンは、1945年日本の敗戦とともに臨時政府を立ち上げ、同年ベトナム民主共和国を建国した。フエを都とするグエン朝は、バオダイ帝(保大帝)の退位とともに幕を閉じた。
この年ベトナム以外にもインドネシアとラオスが独立、1948年までにフィリピン、インド・パキスタン、セイロン(スリランカ)、ビルマ、大韓民国と植民地の独立が続いた。
一方、戦勝国である連合国軍はフランス連合の一部としてしかベトナムの独立を認めなかったため、完全独立を目指すホー・チ・ミンらとフランスとの交渉が決裂し、1946年第一次インドシナ戦争へと突入、1953年にフランスが大敗するまで戦火を交えた。
1954年ジュネーヴ協定(インドシナ休戦協定)が結ばれ、フランスのインドシナからの完全撤退とベトナム民主共和国の独立が承認され、2年以内に南北ベトナムの統一選挙が行われることとなっていた。しかしアメリカと南ベトナムはこの調印に加わらず、フランスに擁立された臨時国家・南ベトナムの国主となっていた保大帝をクーデターで廃し、ジエムの傀儡政権を擁立、反共国家としてのベトナム共和国(南ベトナム)を建てた。
ジエムは厳しい弾圧を行い、負けると分かっている統一選挙も拒否していた。1965年からはアメリカも本格的な軍事介入を進めたため(ベトナム戦争、第二次インドシナ戦争)、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は南ベトナムの解放民族戦線(解放戦線、通称ベトコン)と協力し1968年テト攻勢(旧正月の停戦中の奇襲攻撃)をかけ優勢となり、1975年にアメリカはサイゴン(ホーチミン)から撤退することとなった。
※ベトコン(Việt Cộng / Vietcong、越共)は、越南共産党(ベトナムコンサンダン)を略した通称で、もとはジエムが名付けた蔑称。
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