私の自画像はない。
絵の対象としては自分自身に興味がない。
むしろ他人、特に女性、そして他の色々な現象に興味が有るのだ。
Gustav Klimt(1862-1918)
前世紀末のウィーンで新しい芸術の波を先導し、多くの非難や中傷を受けながらも、みずからの表現を追求し続けたクリムト。時代の反発を一身に受けながらも、彼の作品はみるものを虜にし、現在に至っては最も人気のある画家のひとりになっている。
芸術的感性の豊かな一家に育ったクリムトは、美術学校時代から肖像画を描いて貧しい家計を助けていた。卒業後は、仲間や弟エルンストとともに「芸術家カンパニー」を設立し、地方都市の劇場装飾を制作するなど好評を得ていたが、父が亡くなった1892年、弟エルンストも若くして亡くなったことを期にカンパニーを解散していた。
師・ラウフベルガーのもとで7年間学んだ伝統的な画法により、権威の寵を得ていたクリムトにとって、生きる糧として描いてきた絵が自身の表現へと変わるきっかけとなったのが、ウィーン大学の天井画 「哲学」 「医学」「法学」だった。
それまでの伝統から逸脱したこの天井画は、教授たちからの総反対を受ける。彼らが望む威厳に満ちた学問のイメージとは、その絵が大きくかけ離れていたからだ。クリムトは最終的にこの依頼を辞退し、報酬を返還して作品を引き取った。
そして国家というパトロンから離れることを決意する。現在もウィーン市内に輝く”金のキャベツ”セセッションが、1997年「分離派」と呼ばれる反体制的芸術家集団の展示館として建てられた。クリムトはその会長に就任し、それまでになかった新しい画風をつくりあげ、同じような意欲を抱いた若き画家たちに、援助することを惜しまなかった。
エゴン・シーレは、クリムトが最も期待を寄せた才能だった。 28年という短い生涯に、少数ながら頽廃的な世紀末感とエロスを前衛的に表現した。他者にモチーフを求めたクリムトとは対照的に、シーレは多くの自画像を残し、剥き出しの自己と性を繰り返し描いている。
2人に共通するのは「死=タナトス」の香り。そしてシンプルな輪郭線が、皮膚や骨、関節や筋肉のリアルな質量を驚くほど正確に捉え、その裏に隠された内面までも饒舌に語りかけてくることである。
絵の題材としては当時タブーであった裸体、妊婦、性描写……エロティックでスキャンダラスな絵を描き続けたクリムトは、ごうごうたる非難を浴びる。しかしその訳は、人々の心の奥底に眠る欲望と真実をあっさりと描きぬいた彼の才能と信念に、すぐ素直に理解を示すだけの自由な社会的背景がなかったからに他ならないだろう。
絢爛たる装飾的手法と、一方で飾ることを知らぬどこか無垢で瑞々しい感性は、時代の流れに敏感な人々の間で次第に好評を得るようになる。そしてついに傑作「接吻」に至っては、国家をも彼の芸術に降参させたのである。
この時期からは同時に「黄金の時代」でもあり、金箔を多用した絢爛かつ官能的な生涯の傑作を多く生み出している。
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