
この世では、ついに私は理解されない。
Paul Klee(1879-1940)
なぜならいまだ生をうけていないものや、死者のもとに私がいるから。
創造の魂に近付いているから。
けれど、さほど近付いたわけでもあるまい。
パウル・クレー展 創造をめぐる星座
2025/1/18~3/16 愛知県美術館
2025/3/29~5/25 兵庫県立美術館

「また忘れちゃったの」と呟きながら、
そっとうつむきはにかんだ笑みを口元に浮かべる。
それは幼いあどけなさに見えて、
老いるにつれ子供に還る老人のものかもしれない。
なんと、いとしむべき、その無垢。
無垢な絵。あどけなさの残る幼な児がクレヨンでごしごしとえがくような、はかなげで暖かく、それでいて何かハッとさせられるクレーの絵。絵というよりもむしろ、スピリチュアルなサイン・・・。これを描く画家とはどんな人だったのだろう?
彼の作品に触れた人はそう不思議に思うことだろう。
パウル・クレーはスイスの首都ベルンでドイツ人音楽家の両親のもとに生まれ、夏には保養地のベルン高地でアイガー、ニーゼンといった聳える山々の頂を眺めて育った。小さな頃からヴァイオリンの才能を発揮し、11歳で市の管弦楽団の非常勤団員となるほどの腕前でもあった。けれど彼の才能は音楽にとどまらず、文学や絵画の創作活動にも興味を示し、音楽家への道を望んでいた両親の思惑とは異なり、絵画の道へと進んでいった。
とはいえ、すぐに花開いたわけではなかった。
1898年、パリに並ぶ芸術の都・ミュンヘンの美術学校に入ったクレーは、象徴主義画家シュトゥックに指導を受けるが、学校での画一的な教育には馴染めず1年で退学。しばらくはイタリアを遊学していたが、数年後に結婚。アーティストの卵たちがひしめくこの街で、ピアノ教師の妻が生計を立て、彼は主夫として家事と育児をこなしながら表現を模索してゆく。
参考:シュトゥック「スフィンクスの接吻」1895
フランツ・フォン・シュトゥック(1863-1928)
ドイツを中心に活躍した分離派・象徴主義画家。
その作品は宗教や神話を題材に、裸体を用い、
人が持つ荒々しい本能をあらわにしたものが多い。
自ら設計したヴィラで毎晩宴を催し ”芸術家の王” と呼ばれた。
分離派や象徴主義とも関連深い世紀末美術をよく伝える作風で、
クノップフやベックリンに影響を受け、
同時代におなじく分離派で活躍した画家クリムト、
教え子にクレー、カンディンスキーらがいる。
線描の銅版画に固執していたクレーだが、同じくシュトゥックに学んだカンディンスキーや、マルク、マッケといった画家仲間と共に、ドイツ表現主義の『青騎士』活動に参加する。展覧会を催し、キュビズムの大家・ピカソやブラックを活動に招待するなど、造形を模索しつつも ”見えないものを見えるようにする” ことをテーマのひとつとする前衛的な芸術運動である。
そして長い年月ののち、転機が訪れた。マッケたちと共に旅した、北アフリカの国・チュニジア。1914年の2週間足らずのこの旅が、内なる世界に結んだ豊かな果実は、彼を ”色彩の魔術師” へと羽化させる。

紙に滲むのは、日の沈む国マグレブの蜃気楼。
クレーの頭上に、天から色彩が舞い降りて来たようだ。

物語に出てくる、妖精の王国のように。
山は高く夢を掲げ、月に向かい城を築き・・・。
小学校の頃、文房具屋で買った安くて太い筆を使い、
こんな絵を描いた子がいたかもしれない。
チュニジア旅行から帰って間もなく、ドイツは第一次世界大戦へと突き進み、ともに旅をしたマルク、そして親友マッケも若くして戦死してしまう。クレーも徴兵されるが幸い後方支援につくこととなり、絵を描く機会は戦争中でも確保することができた。
戦争に対する憤りを抽象絵画という形で強く表現していたクレーだが、皮肉なことに他の画家たちが消えてゆく中で、画家として注目を集め始めた。盟友の死によって、皮肉なことに画家としての道も開かれたのだ。そして買い手の嗜好を意識してか、テーマも徐々に変化を見せていった。彼もまた戦争に翻弄され、運命を大きく揺さぶられた芸術家のひとりなのだ。

小さな球根から神秘に満ちた花が咲く。
黒い三日月に導かれた金色の羽毛の小鳥と、
ミステリアスな花が出会ってことばを交わす。
「ねぇ美しい君の名前は何?」
「私は私よ・・・はじめまして、可愛い小鳥さん」
日記を欠かさずつけるなど、文筆にも慣れ親しんでいたクレーは、エッセイ『創造的信条告白』を発表し、名実ともに新たな芸術を担う画家のひとりとして認識されていく。クレーはさまざまな画家と交流を持っていたが、その作品は象徴主義でもなくドイツ表現主義にとどまるものでもなく、彼だけの非常にユニークなスタイルを確立していくのだった。

あえて邦題を「金魚」ではなく上のように添えた。
生まれながら輝く鱗に覆われた金色の魚。
光の強すぎるものは周囲をむしろ
波を立てて驚き逃げ惑う赤い魚たち。
この絵に見つけたのは、
華やいで見える美しい魚の、知られざる孤独。
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツでは、1919年、芸術と産業(職人技術)を統合した美術工芸学校であるバウハウスが設立され、クレーは友人カンディンスキーと共に、その教師に任命される。作品を創る時間を奪われはしたが、生徒に教授するために自らの芸術論を整理し、深く追求し高めてゆくにはよい機会でもあった。
製作に携わる時間の不足からこの場所を去るまで、よく工夫された方法で芸術論を展開した。もともと音楽や文学にも造詣が深かったクレーは、複数の分野を統合した総合芸術への関心が強く、それも熱心に講義を行う原動力となったに違いない。

舞台のハイライトに繋がる青のグラデーション、
それに背景の闇に映えるエキゾティックな赤のモザイク。
美しくかつ穏やかに戦いの高揚感をもたらす一方で、
どこかユーモラスな物語絵である。
クレーの絵には、時期によって多用される手法があるが、線描やエッチング中心であったごく初期を除き、素材感を生かすための画材の自由な混在が認められる。それは時に水彩と油彩であり、糊と版画であり、掻き傷や擦れなのだ。
そしてどこか僅かに歪んでいる。歪みながらも倒れない温かみのある線。それは無機的な計算による産物ではなく、儚い命を繋いで生きてゆく ”人” の奥底から、生まれるものだからなのだろう。魔法のような色彩のパッチワーク、全体を捉えるバランス感覚は、ひとつひとつの作品に視覚的なハーモニーとなってあらわれる。

無秩序と秩序、無機と有機。
要るものと要らないもの・・・。
その配合のバランスが実は難しい。
クレーはそのバランス感覚に非常に長けており
無秩序に見えて、規則正しい法則性も同時に感じさせる。

色と四角の集合体。
不規則なのに感じられる規則性は、
有機物から得た手本でもある。
暖色系の色合わせにも、花園にも、
社会の縮図にも見えるそれは、
見ている人の心に暖かな灯をともす。

油彩スタンプによる色彩と形のハーモニー。
暮れなずむ麓の扉は、緋色の太陽に象徴される次の高みへと、
誘(いざな)うかのように静かに待つ。
私たちは次第に満ちてゆく幸福と希望に胸を高鳴らせながら、
そっとそっと、重く、しかし優しい、
しかし1933年、ヒトラーがドイツ帝国首相に任命され、政治的危険分子と判断された前衛芸術の取り締まりが始まった。クレーのアトリエも厳しい捜索を受け、妻の勧めもあって誕生の地・スイスに亡命する。

顔は笑う。
でも伝わってくるのは悲しみだ。
透明な青い目を裏切るように、
分断された身体は、幼い心に残す傷跡。
かつて子供だったはずの ”大人” が、
左端で冷たい笑みを浮かべている。

いびつな形、内部から傷みが始まり、
傷口から染み出る赤いエキス。
目を閉じた果実の睫毛の下には涙?
熟れ過ぎた果肉を、
流すことを哀しむかのように・・・。
亡命先スイスでは、ドイツの銀行口座が凍結され困窮に陥り、さらに亡命から2年後には難病である皮膚硬化症も発症してしまう。末期の診断を受け、一時は創作活動自体が難しい状態に陥った。
しかし晩年の1937年には、手の動きは制限されながらも創作意欲を取り戻し、第二次世界大戦が勃発する1939年に至ってはシンプルなデッサンなども含めると、実に1200点以上の作品を残している。

ナチス・ドイツの支配が進む中、
さまざまな個性が集まり反旗を翻す。
いろとりどりの橋、高さの異なる橋、
それらはバラバラに見える人々が起こす、
巨大なおしとどめられない革命。
画一に押し込めることのできない、
ナチスに屈しない人々。
膨大な数の作品を世に送り出したその翌年、療養先のロカルノ近郊にてクレーは60年の人生を閉じた。自身を迫害したナチス・ドイツが再び敗戦国となるのは、その5年後であった。
クレーの絵。ときに天啓のようで、無垢な心が生み出す偶然の産物のようにも見えてしまう。でも感性だけで描く画家ではけしてなく、人の何倍も思考し、分析し、理論を精錬して表現し続けた人なのだ。だってあなたは、こんな言葉を残したでしょう?
”芸術は目に見えるものを再現することではなく、
見えるようにするものである。”
そうそれが、私たちがクレーからもらった贈りもの。

1月に父が、6月に自身もこの世を去る年の連作・エイドラ。
何かに導かれるように、紙の上を線は滞りなく滑る。
エイドラ=ギリシア語で ”まぼろし” 、
参考文献:クレー(TASCHEN)
クレーの贈りもの(コロナ・ブックス)